九州大学の歴史と女性

帝国大学と女性

国家のために「学問」を追究する帝国大学には誰でもが入学できたわけではない。その入学資格は「当該大学予科ヲ修了シタル者、高等学校高等科ヲ卒リタル者又ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ之ト同等以上ノ学力アリト認メラレタル者トス」[大学令(大正7年勅令第三百八十八号)]と定められていた。そのため帝国大学入学者のほとんどが高等学校卒業者であった。(旧制)高等学校は、高等普通教育を施す教育機関であり、実質的には大学予備教育を行っていた。この高等学校への入学資格は、そもそも男性のみが通う尋常中学卒業程度の者とされていたが、1918(大正7)年の高等学校令によって高等学校は男性のみの学校であると再確認された。すなわち、帝国大学には旧制高等学校を卒業した男性が入学し、学ぶことがいわば暗黙の了解になっていた。

ここで戦前における学校制度の特徴を確認しておきたい。戦前の日本の学校制度体系は単一制の尋常小学科を基礎として、その後の中等教育や高等教育は、卒業後の進路種別、およびその社会的威信の別に対応して複雑に分岐していた。しかも相互の転移は原則として困難とされたことにその特徴があった。義務教育段階の単一な課程を終えた後は、働くか、高等小学校へ進むか、中等教育機関へ進学するかという進路となり、政府が力を入れた本流が中学→高等学校→帝国大学のルートであった(正系)。

中学校は男子のみの学校であり、中学校に対応した女性の学校が高等女学校である。高等女学校は、あくまで「女子に須要なる高等普通教育」を授ける学校であり、修学年限も中学校が5年であったのに対し、高等女学校は4年が原則であった。この高等女学校を卒業したあとに女性に認められていた高等教育は制度的には専門学校だけであった。近代日本において明確な女性の高等教育理念に基づいて設立された学校は女子高等師範学校の他は私学に多く存在するものの、それらは中等教育の学校の延長に過ぎず、高等教育機関とみなすことはできなかった。1900年頃に女子英学塾、女子美術学校、東京女医学校、日本女子大学校などが設立され、1903年の専門学校令公布によって専門学校の認可を得てその多くが女子高等教育機関として認知されるが、近代日本の女子教育の基本ともいえる「良妻賢母」思想と矛盾するという意味で、その存在に対する政府、文部省の反対も根強いものだった。

こうした教育構造をもつ日本において女性が高等学校(大学予科)、大学へ入学することは基本的に閉ざされていた。

『学制百年史 資料編』文部科学省

『学制百年史 資料編』文部科学省