九州大学の歴史と女性

九州帝国大学における女性の門戸解放

こうした流れの中で九州帝国大学では1922年2月、工学部が応用化学科に限って「婦人」の聴講を許可することを表明した。このことを契機に九州帝国大学でも女子学生の受け入れ問題が議論となる。

同年4月に東京女子高等師範学校卒業で筑紫高等女学校の女性教師馬場ヒトヱが化学工芸学通論の聴講を出願した。工学部教授会はこの出願の許否について協議し許可の決定を下したが、その後、5月27日の大学評議会では調査が必要であると結論を先延ばしにした。その後、学生監河村幹雄は東大、京大、東北大、日大といった国内の大学だけでなくイギリス、アメリカの場合も合わせて男女共学に関する調査を行い5ケ月経った10月の評議会において「一般的には男女共学は望ましからずと言うの外なし、故に女子聴講生の入学許可が男女共学の実を生ずる恐れある場合、これを許可せざると希望す」と解答した。しかし、河村は「特殊部門において専攻科乃至大学院程度の学力を有し、年齢においても一般大学卒業生以上に達している女子が学術攻究の目的を以て熱心に出願した場合」であれば、正科生・選科生の学修に妨げない範囲内で研学の便を与えてもよいという見解も示し、評議会はこの意見を聴取して「女子にして聴講生として入学志望者あるときは、其の資格等を当該学部に於て十分調査し入学を許すことあるべきこと」とまとめた。

けれどもこの工学部における女性の聴講問題は結局男女共学の問題に関わるということで更に検討を加えるべく、総長真野文二は大学令における女性の取り扱いについて文部省に問い合わせを行った。九大としては従来の慣例及び実際の事情から大学令は男子のみに適用するものと考えていたが、文部省の見解は、特に「女子を許可する」という文言はなくても大学令を女性に適用するというものであった。これを受けて11月22日の工学部教授会で「新大学令ニハ女子ヲ含ムヤ否ヤニ就テハ、文部当局ノ意向ニ依レバ女子ヲモ含ム旨言明」と報告され、漸く工学部の女性聴講生の許可の決定が下りた。だがその最終決定が出たとき、当該講座は開講されておらず、工学部は出願書を馬場に返すことになった。馬場は再度出願することをしなかったため、この女性聴講生問題は立ち消えになってしまった。

その後、九州帝国大学において女性の正科入学問題が本格的に論議されたのは1925年に法文学部が開設される時であった。1924年12月の評議会では法文学部の規定第1条中の学力試験を受け得る者のうち「女子高等師範学校」という表記の削除を決定していたが、女性にも門戸を開くことを主張した創設委員長美濃部達吉の意見で再議された結果、次のような法文学部規定第1条の入学者学力検定受検資格の規定が決定した。

九州帝国大学通則第六条第二号ニ依リ本学部ニ於テ行フ学力検定試験ヲ受クルコトヲ得ルハ高等師範学校、女子高等師範学校、高等商業学校若ハ外国語学校ヲ卒業シタル者又ハ専門学校卒業者ニシテ本学部ニ於テ適当と認メタル者ニ限ル

このように法文学部では受験資格に女子高等師範学校卒業者(同等以上の者を含む)が加えられた。この時工学部、農学部教授会でも女性の入学が検討され、工学部では見送られ、農学部では法文学部同様に女性の入学を許可することとなった。学部に限定はあるものの、ここに九州帝国大学として初めて女性の入学の道が開かれることとなったのである。

福岡日日新聞(1924年11月7日付)

『福岡日日新聞』(1924年11月7日付)