九州大学の歴史と女性

九州帝国大学の女子学生

1925年4月法文学部最初の入学試験が高等学校・大学卒業の無試験入学者74名、受験志望者327名中実受験者240余名で実施された。この時3名の女性が受験しており、うち2名が合格した。一人は哲学科志望の調須磨子(26才)である。彼女は1916年に直方高等女学校を出て奈良女子高等師範学校へ進学し、卒業後1年間東京帝国大学で聴講生を経験した後、熊本高等女学校で教鞭を執っていた人物であった。もう一人は横浜出身で1921年に東洋英和女学校を出て東京女子大学を卒業した織戸登代子(29才)であった。『福岡日日新聞』(1925年4月14日付)はこの2人の入学を全受験者中の成績まで紹介しながら次のように大きく報道した。

福岡日日新聞(1925年4月14日付)

『福岡日日新聞』(1925年4月14日付)

試験官の折紙が付て 二女史九大に入学 孰れも良好な成績を占て未来の女学史調織戸二女史
-調女史は明治卅三年生まれで本年廿六才、織戸女史は同卅年生まれの廿九才であるが織戸女史は高等学校専門学校卒業の男子と共に二百五十名と云ふ多数と共に英語の試験を受けて百五人の合格中九十二番、調女史は此等男子卒業生卅幾名の間に伍して十二番と云ふ好成績で、多くの男子を蹴落として見事にパスし婦人のために解放された九大法文学部第一回の本科入学生として大島学部代理が「婦人だからとて決して手心した者ではない。極めて厳密な試験の結果堂々たる男子に対して遜色なかつた者である」との折紙付で将来の女法学士又は女文学士として入学する事となつた。これで東京あたりで盛んに女史のために教育の機会均等を叫んで居る女性のために確に其優秀を裏書した者と云はねばならぬ。-

女性の帝国大学への入学希望は世間でも話題となっており、同新聞は受験日の数日前に調須磨子の自宅を訪れインタビューをしている。この時、彼女は入学の動機について以下のように述べていた。

何も深い考へを持つて居る訳ではありませぬ唯確つかりした思想を持ちたい欲求からなのです私は福岡県飯塚町の生まれで大正九年に奈良高等女子師範学校を終へました終るとすぐに宮崎県立都城高等女学校に教鞭を取るやうになつたのです茲に二ケ年教壇生活を続けましたが常に自己を内省する毎に自分乍ら思想の新弱なのに愛想がつきています其処で十一年五月に東京に出ました帝大法文科の聴講生となって一ケ年哲学を学んだのですが悲しいかな語学の力が足りないので之には困りましたそれば許はかりでなく肝心な図書館が私共に利用されない事になっていましたそうした関係から許りではありませんがどうも聴講生としては張り合いがなく緊張が欠けて仕方がありません。其処で東北帝大に入学しやうかと思ひましたが何分郷里には年老ひた父親が居りますので成るべく近い所則ち九大に入らうと思つて昨年の夏休みに東京行つた序に文部次官を訪ひ女性の為に九州大学の開放されるやうな事はないかと聞ひました所文部次官は大分皮肉を言はれました夫れと申しますのは講座でも教授でも九大より東京帝大がいくらも勝て居るだから東大の聴講生になつたがよくはないかとの話でしたが私としては聴講生は最早懲々ですから其侭になつて居りましたが今度幸ひ九大法文科が門戸を開放されましたので兎も角願書をだしては置きましたがどうなりますか若し入学が出来ましたら矢張り哲学を研究してみたいと思つています唯自分の思想をしつかりととしたものにしたいのが私の願望です私は自ら進んで社会運動等に携はる事は毫も考へて居りませんぬ唯今日の女子高等教育は男子によつて行われる結果男子から見た女子のみにでありますが女子からみた本当の女子を教養する事が大切ではないかと密かに考へて居ります云々