九州大学の歴史と女性

初めての女性卒業生の誕生

東京帝国大学では1920年2月17日に評議会で分科大学通則を全文改正して制定した際、学部通則に初めて聴講生の規定を設け、女性の聴講生の入学を許可し、同年9月20日に文学部でも「聴講生規程」を制定した。これにより同年9月13日に女性の聴講生32名、翌年4月13日には46名が入学を許可されていた(『東京大学百年史通史二』)。調須磨子はこの規程に則り聴講生をしていたものの聴講生に飽きたらず、更に九州帝国大学の正科生として哲学の攻究に励もうと入学を希望していたのである。かくして「紋付袴を以て制服とし襟章を袴紐に」付けた彼女たちの大学生活が始まった。調は「私達女性に大学の門戸を開放されたことは全く私達の命が救われた様に思ひます」(『九州大学新聞』第3号、1927年10月10日)と答えており、1928年に「フッサールの現象学批判」の卒業論文で九州帝国大学初の女文学士として卒業した。一方の織戸登代子も「ローザ・ルクセンブルグの資本蓄積に関する研究」の卒業論文で日本初の女性経済学士となった。

彼女たちが卒業する1928年3月は10年ぶりに卒業式が復活した年でもあり、『福岡日日新聞』は「十年振りに復活する新学士晴れの卒業式-九大工学部運動場にて挙行異彩を放つ紅二点の女学士」と題して大きく報道した(『福岡日日新聞』1928年3月30日付)。織戸は卒業後しばらく大学に残って研究を続けていたが後に横浜に帰りその後の消息は不明である。調は在学中より福岡市西新町に高等女学校卒業者のための私塾百道女子学院を開き卒業後も女性の啓蒙活動を行った。

調・織戸二人の入学を契機に九州帝国大学への女性入学者が続いていった。翌年1926年には独文専攻に日本女子大出身の渡辺けいが入学し(卒業後の消息は不明)、1927年には梅花女専門学校出身の松田フミ子(社会学専攻)、日本女子大出身の小笠原雛代(国文専攻)と星子菊代(英文専攻)の3名が入学した。星子は熊本県立高等女学校に入学するも福岡女学校に転校し、その後活水女子専門学校の英文科に進学し、卒業後母校の福岡女学校で2年間英語を教えた後、1年間九州帝国大学の英文科の聴講生となり、その後正科の学生となった。彼女は在学中に結婚し、戦後は郷里の熊本で県立熊本女子大学で教鞭をとり65才で定年退職した後も筑紫女学園短大で80才になるまで英語を教えていた。

福岡日日新聞(1925年2月4日付)

『福岡日日新聞』(1925年2月4日付)

福岡日日新聞(1928年3月30日付)

『福岡日日新聞』(1928年3月30日付)

その後約20年間の女性の九州帝国大学入学者は約30名にのぼる。卒業者の多くは消息不明であるが、1936(昭和11)年度までの九州帝国大学女性卒業生の進路は、行政官吏1人、学校職員4人、その他の業務種5人、新聞雑誌記者1人、職業未定または不詳の者8人、死亡1人である(湯川次義『近代日本の女性と大学教育』)。福岡女子専門学校から入学し1947(昭和22)年に卒業した城野節子(1914年10月中国旧満州奉天生)が九州大学最初の女性教授としてフランス文学を教授するなど短大や大学で教鞭を執った卒業生も多い。