九州大学の歴史と女性

九州帝国大学の女子留学生

これまで九州帝国大学に入学した女性について述べてきたが、九州帝国大学で学んだ女性は日本人ばかりではない。次に同大学における女子留学生について見ていきたい。

九州帝国大学における外国人留学生の受け入れは1900年に始まるが、女性の留学生を受け入れるのは1929(昭和4)年のことである。女子留学生第1号である趙は朝鮮出身(京畿道)であり、梨花女子専門学校(現 梨花女子大学)を卒業後、無試験で同大学に入学して西洋史を専攻する「学生」となった。そして1931年には法文学部に朱毅如が学生として入学している。朱毅如は大阪の梅花女子専門学校の卒業生で「法学士」を志望して政治学を専攻した。1944年までの全女子留学生を追っていくと「学生」として九州帝国大学に在籍した女子留学生は上記の2名他、法文学部に宋恵普(1937年入学、黄海道出身、梨花女専卒)、桂俊泰(1939年入学、平安北道出身、梨花女専卒)の3名が入学している。しかし、例えば朱が入学する前年の1930年には法文学部に専攻生として霍淑英が入学しているように、1929年から1944年までに計29名の女子留学生が入学しているが上記の4名以外は専攻生として学んでいた。

日本人女子学生と女子留学生とは在籍学部が異なっている。上述したように九州帝国大学において女子学生にその門戸が開かれていたのは法文学部と農学部だけであった。しかし、同じ女性でも留学生は医学部に在籍が許されていた。もちろん、医学部で学ぶ女子留学生が「学生」扱いではなく「専攻生」とされている点は看過できないことであるが、同大学で日本人女性が医学部に専攻生として登場するのは1939(昭和14)年である。大学の女性への門戸開放に関して詳細に研究している湯川次義氏は日本人女子学生が帝国大学の医学部に専攻生(聴講生)として学ぶようになったことについて「各大学の専攻生規定などには特に女性の明記がなく、それまでの規定を解釈して女性へも適用したものと考える」と述べている。他の帝国大学を日華学会『第10版  留日学生名簿』にそって確認すると1931年に東京女子医学専門学校出身の鄭推先が東京帝国大学に医学科専攻生として、東京女子高等師範出身の陶慰孫が京都帝国大学大学院に在籍している。そして1936年には東京帝国大学では法学部大学院生1名、医学部専攻生5名、聴講生名のあわせて7名の女子留学生が、京都帝国大学に1名、東北帝国大学に4名、大阪帝国大学に2名の女子(中国人)留学生が在籍していることが確認できる。九州帝国大学においても少なくとも女子留学生が日本人女子学生に先んじて医学部で学ぶ機会を得ていたのである。

ここで中国における教育状況について触れておくと、中国国内で1920年代からの男女共学の政策により高等教育を実現し、大学を卒業した女子学生が増えていた。更に、1933年には「国外留学生規定」46ケ条が公布されるなど積極的な留学政策の展開がはかられた結果、女子留学生の人数が増加するだけでなく、留学先の高等学校、専門学校に入学を希望する学生が増えるようになり、留学水準が高くなっていた。中国人女子留学生にとって日本は「安全で人民は大概倹約でその文化の程度も世界各国に劣らない」(凌智「日本留学の目的」『日華学報』第25号、1931年7月)国だと映っていたようではあるが、著しく男女差がある日本の教育は彼女らの目的を満たすに十分であったとは言い難いであろう。

こうした中国と日本の女子教育の相違は、同じ帝国大学の女子学生としての差として如何に現れていたのだろうか。以下に九州帝国大学における数少ない学生の一人である朱毅如の「日支女子大学生の比較」(『日華学報』第51号、1935年5月)の一部を紹介し、同時期に同じ女子学生として帝国大学に在籍していた中国人女子留学生からみた日本人女子学生の一端を見ておきたい。

朱毅如は「九大は男女共学を許可した最初の官立大学であつてこの大学の卒業及び在学の女学生の人数は既に女子の就学を許可した他の如何なる官立大学よりも多数であるから私はこの大学に於けるものを代表として全体の女学生」に就いて述べるとした中で、日本人女子学生と中国の女子留学生との共通点を次のようにまとめている。

  1. 1.運動を好まないこと。
  2. 2.お菓子が好きなこと。
  3. 3.相当お洒落で活動を見ること。
  4. 4.一切の問題について其の真相を知らうとしないこと。主観的な意見や批評のないこと。
  5. 5.暇な時はスターや役者のことを批評し又は他人の長所短所を噂すること。
  6. 6.平生男子学生と学術研究に関する共同組織を作つて居ることは極めて稀有であること。

当時の女子学生の状況を理解する上でさらに興味深いのは、朱が指摘する日中の女子学生の違いであろう。

相違点としては、まずその学生総数の少なさであり、しかも学部が「文科」に制限されていることである。朱によれば日本の女子学生の思想は多く保守主義であり「家庭は全部富裕であるが、彼等は銭を使ふのに極めて倹約」であるという。同じ学生という立場の比較で注目すべきは、日本の女子学生は単に倹約を心掛けているだけではなく、「参考書を買ふことは極めて少な」く、中国の女子留学生が「大学に入学すれば家庭内の一切の事は全くかまはないが、日本の女学生はこれと反対で、彼等は学校から家庭に帰れば常に母親の手伝ひとして種々な仕事」をし、「文科に居る学生も全く新聞とは無関係で、殆ど時事はかまはない」という指摘であろう。さらに朱は「日本の女学生は結婚に懸念して居るから、若し相当の縁談があればいつでも学業を廃業して結婚する。あと一学期で卒業出来ることさえも顧みない。」として「彼等は要するに結婚を以て女子の最も安全なる帰着点とするもので、大学を出て良い婦人の地位を得ることは何よりも最も熱望することである。だから結婚すると二度と絶対に世の中に出て仕事をしようとしない。これは日本の良妻賢母教育の影響かもしれない。」とまとめている。卒業後10人に8、9人の女性が就職し仕事をもとめる中国人留学生の感覚からは馴染まない文化であったであろう。

これらの所論からだけからすぐに結論をだすことはできないが、国家意志を明確に持ち、政治的目的から日本に留学して「学問」を志す女子留学生と、先に紹介した日本人女子学生調須磨子が社会、政治と距離を置いたところで「自己の思想」の貧弱さを問題にして「学問」に取りくもうとしていた在り方との温度差を読みとることができるだろう。

以上九州帝国大学の女性への大学教育の門戸開放の過程を紐解いていった。それぞれの思い、志をもった女性が時代の流に敏感に反応し自らの意志でその扉を叩きその歴史は始まったのである。

このように今回紹介した二人の女性の「挑戦」から九州大学での女性の学びが始まり、女性たちがそれぞれの立場で自らの意志を持って九州大学の歴史の一部を築いた。現在、在籍者の約30%を占める約3400人の女性(学部)が学んでいる。ひとり一人が前向きに進んでいくことでこの歴史がさらに厚みあるものに発展していくことであろう。