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2010.04.19 我が男女平等感が育まれた時代背景 (九州大学大学院応用力学研究所 助教授  岡村 誠)

我が男女平等感が育まれた時代背景



岡村 誠


 経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは昭和31年で、ぼくはその翌年である昭和32年に生まれた。記憶に残るのは幼稚園のころからなので、ぼくの記憶にある町の風景には戦後の面影はまったくない。時代は高度経済成長の渦の中にあったので、多少の貧しさはあったが、少し前まで戦争があったことを忘れたように、皆忙しく働いていた。炊飯器、掃除機、洗濯機、冷蔵庫など、主婦の労働を軽減する電気製品も次から次へと世の中に出てきた。戦後になって、男女平等の考え方を取り入れた憲法となり、両親の子供時代より、はるかに男女平等になっていた。そして、ぼくは漠然と男女平等だと感じていた。


 小学校新入生(つまりは幼稚園児)の将来なりたい職業(化学品メーカー・クラレの調査による)は平成18年で男の子がスポーツ選手32%、運転手6%、警察官6%、女の子がパン・ケーキ屋27%、花屋15%、看護師8%となっていて、ぼくの子供時代と大きな差はない。ただ、女の子の上位には客室乗務員(スチュワーデス)があったような気がする。当時、ぼくは社宅に住んでいたが、その社宅で自家用車を2番目に買った人が、客室乗務員をしていた近所のお姉さん。おそらく、お父さんより給料がよかったのだろう。


 小学生のときにはプロ野球選手になるのが夢だった。これはテレビアニメ・巨人の星(昭和43-45年)の影響が大きい。そこには一途で厳しい、いわゆる頑固親父や、心が優しく、家族を側面から支える良妻賢母的な姉など、典型的な男性、女性が描かれていた。


 小学生のときには男女とも家庭科を学んだが、中学生になると男子は技術、女子は家庭科に分かれていた。当時は中学生にもなると教科が専門化されるのだと思っていた。ちなみに、中学の家庭科が男女共修になったのは平成5年。この動きは昭和60年に日本が国連の女性差別撤廃条約を批准したことによる。


 高校入学は昭和48年。この年の高校進学率(文部科学省の学校基本調査による。以下同様。)は男88%、女90%であり、ほとんどの人が高校へ進学する時代になった。昭和32年は男54%、女48%、平成17年は男97%、女98%であり、高校進学率は時代と共に上昇しているが、その男女比率はほとんど変わらない。しかし、学校の成績(特に上位層)に関しては男子の方が女子より上であったようだ。確かに中学までの学業成績に男女差は見られなかったのだが、高校に入ると明らかに男女差が現れてきた。多くの女子は勉強のやる気を失っているように見えた。女子は高校生ぐらいになると、世の中の男女差別の実態がなんとなく見えてきて、「将来はどうせお母さんのように家事をすることになるから、一所懸命に勉強してもしょうがない」と考えたのだろうか。きわめてまれには、猿橋賞を受賞するような人もいたわけだが。


 猿橋賞はあまり知られていないかもしれないが、地球化学者である猿橋勝子さんが創設者で、自然科学の分野で顕著な研究業績をあげた女性科学者に贈られる賞である。昭和56年に始まり、平成18年で第26回目となる。その26回目の受賞者である森郁恵さん(名古屋大学教授)は「現状では猿橋賞のような女性科学者に贈られる賞は必要」とコメントをしている。いつになったら猿橋賞が必要でなくなるのだろうか、それとも、男性科学者に贈られる湯川賞というものが必要となる時代がくるのだろうか。ちなみに、第4回猿橋賞を受賞した米澤富美子さん(慶應義塾大学名誉教授、日本物理学会の元会長)は高校の大先輩である。


 浪人したので大学入学は昭和52年。この年の短大を含む大学進学率は男42%、女33%で、それほど男女差がないように思える。ところが、もう少し詳しく見てみると、4年制大学では男40%、女13%、短大では男2%、女20%となり、明らかな男女差がある。これは「男の子なら4年制、女の子なら短大」という考え方が主流だったからであろう。平成17年の大学進学率(4年制)は男51%、女37%で、短大の数が減っていることもあるのだろうが、上記の考え方をする人は減ってきているようである。ぼくは理学部に入ったので、女子学生の数は工学部より幾分多かったのだろうが、それでも50-60人のクラスに2、3人くらいだったと思うし、印象もあまり残っていない。


 大学院のとき、同じ研究室の2年先輩は女性で、その人は現在、大学教授になっている。ぼくのいた研究室は各学年とも院生が一人だったので、当時の研究室内での女性の占める割合は例外的に高かったということになる。


 戦後の憲法には男女平等の考え方が取り入れられたので、ぼくの育ってきた時代は制度の上では男女平等であった。しかし、このように振り返ってみると、慣習はなかなか変わってこなかったことがわかる。伝統的な行動様式、考え方を変えていくことが、男女共同参画という言葉に込められているのだろう。本格的な男女共同参画社会の実現の道は険しいかもしれない。ましてや、何もしないで勝手に実現されるものではない。何事にも後押しが必要で、さしずめ男女共同参画推進室はそのエンジンだろうか。ぼくも多少なりとも後押しをしていきたいと思っている。


 蛇足であるが、少子化は後押しになるかもしれない。労働人口が減ってきて、有能な女性を無視できなくなるからである。それから最後に愚痴を一言。高校生の娘が理科の選択で、最初は物理を選んでいたのに、生物に変更したのには少々がっかり。今の高校生も物理は女性に向いていないと思っているのだろうか、それとも男女に関わらず、物理と生物ならば生物を選択するのだろうか。前者なら男女共同参画ということから気になるし、後者なら物理を専攻していたものとしてちょっと気になる。


(おかむらまこと 九州大学応用力学研究所助教授)