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2010.04.19 今振り返る「日米」共同参画事情 (東京大学分子細胞生物学研究所 講師  大坪 久子)

今振り返る「日米」共同参画事情



東京大学・分子細胞生物学研究所 講師 大坪 久子


 私の研究者としてのキャリアはかなり変わっているのかもしれない。九州大学大学院薬学研究科に入学したのが1968年、修士課程の殆どを築地の国立がんセンター研究所で過ごし、その後、金沢大学がん研究所の助手になった。1970年春のことである。そしてその4年半後の1974年秋には、結婚式と渡米と学位論文提出とを同時にやって、ほとほと疲れ切って新任地のアメリカ東海岸はLong IslandにあるNew York州立大学Stony Brook校(現Stony Brook University)にたどり着いた。Oak treeの黄葉でNorth Shoreの森がまさに金色に輝いていたのを覚えている。私はここで、夫(大坪栄一、分子遺伝学者)とともに新しいラボを立ち上げた。


 私の夫は阪大理学部生物学科の博士課程を終え、1971年、カリフォルニア工科大学のNorman Davidsonのもとにポスドクとして留学していた。当時の最先端技術であったDNA Heteroduplex法を駆使して、大腸菌の性決定因子、F因子や薬剤耐性因子、R100といった大型プラスミドとその誘導体を材料として、ゲノム再編成の研究に取り組んでいた。DNA塩基配列決定法がHarvard のMaxamによって開発される何年も前のことであった。夫がアメリカに残ってStony BrookでAssistant Professorとして独立したのは、偶然でもあり、必然でもあったように思う。3年半のDavidson のもとでの研究成果は大変高く評価され、勇んで京大理学部の某研究室の助手に応募した。最後の二人の候補にまで残ったらしいが、ある日、「貴殿を不採用と決めました。」というこの上なく簡潔な手紙をもらい、アメリカに残ると決めたそうである。


 今も昔もアメリカのtenure truck制度は厳しい。外国人だからといって容赦はない。研究と教育とadministrationの三つの点で評価され、実力がなければYou may go! ということになる。このような事情をよくご存じの私の先生方は、二人がいっしょに働くことを強くすすめられた。私にしても、当時の日本では到底考えられない、夫の31才での「独立」を絶対成功させたい気持ちは強かった。これが私たちのDual Careerの始まりであった。


 さて、所属するMicrobiology Departmentから、流しとベンチと空っぽの試薬棚つきの1スパンをもらって我々の新しいラボは動き始めた。そして1年も経たないうちに、生物学専攻の学部生が二人、三人と働きに来た。彼らの殆どが、ニューヨーク市内 (主にBrooklyn地区)のユダヤ人中流家庭の子弟であった。密なカリキュラムの間を縫ってまで彼らが真摯にラボにきて毎日実験に勤しんだのには理由がある。TAとしてのバイト代とともに学部修了後のMedical Schoolへの推薦状が欲しかったのである。自分の意志でラボに来ただけあって、彼らは素晴らしかった。理解も早く実験量も多く、何より質問と議論が大好きで、我々は彼らに“Hi, Eiichi! ”、“Hi, Hisako!”と実験ノート片手に追いかけ回されては、内心うんざりしたものである。彼らは同時に、私の良い英語教師になってくれた。今でも私の英語がブロンクス訛りだと冷やかされるのは彼らの所為である。


 研究も順調に進み、大学院生も増え、論文も良い雑誌に掲載され、Cold Spring HarborのmeetingやGordon conferenceにも参加する頃になって、私はアメリカの女性研究者の逞しさが日本人の一般の女性研究者の強さや逞しさとは桁外れに異質であることに気づくようになった。何しろ、明るくて前向きで強くて、自信を持っている。勿論当時の日本にも良い仕事をして世界的な評価を得られた立派な女性研究者は何人もいられた。しかし、それはあくまでも「点」であった。アメリカの場合、それが層をなしており、しかもその層が若い方でやたら厚いという印象をもったのである。考えてみれば、当時のアメリカではEqual Opportunity Law (機会均等法) が施行されてまもない時期であった。女性と黒人を含むminorityの積極的採用が国策として進められていた。大学教員の公募要領には、必ず「この公募人事は機会均等法にもとづく」旨を明記しなければならなかった。


 この時代の私の周りの女性教員採用で特に印象に残った例を二つほど述べたい。ひとつは、Microbiology Departmentが黒人のウイルス学者、Carol Carterを雇ったときのことである(1974年)。彼女はYale でPh.Dをとり、Roshe Institute でポスドクをしていた。言わずもがな、黒人で女性とくれば、minority のポイントが倍になる。DepartmentからNIHに応募するTraining Grant(現在日本のCOEと似たもの)の審査には圧倒的に有利になるはずである。したがって、能力の高い黒人女性研究者はどこでも引っ張りだこであった。さて、ここで日本の場合、よく出てくるのは「私は女性枠で採用されたなんて言われたくない。」という女性研究者自身の引いた態度である。果たしてCarolはどう言ったか?「皆さん、よかったわね。私のおかげでDepartmentが大型グラントでうるおって!!」(学部長をはじめ男性教員は、ここで盛大に拍手!)決して悪びれない彼女の姿は、私には輝いて見えた。その経験があったからこそ、私はpositive action にさほど違和感をもたない。それどころか「女性枠で採用されたなんて言われたくない。」とのたまう大和撫子研究者を見聞きするにつけ、「おい、おい、おい、しっかりしろよ。チャンスは逃さずつかむのです。そして実績出せばいいんでしょうが・・。」と心の中でぼやいている。


 もう一つは、細胞生物学者Joan Bruggeの例である。彼女は、1979年から私たちのDepartmentにtenure-truck のAssistant Professorとして加わった。 大変評判の良い人材で、人事委員会もその卓越した推薦状のリストと内容に色めき立つほどであったという。私は当時ポスドクを終え、長男を生んだ後、Non-tenure truck のAssistant Professorとして研究を続けていたが、3才の男児をもつJoan がStony Brookを選んでくれるのを心待ちにしていた。結局、Departmentの真摯な招請が功を奏し、彼女はStony Brookにやってきた。そして、内科医であった彼女の伴侶は、同じ大学の医学部にやはりAssistant Professorとして職を得た。研究も大切だが家族の幸せも大切にするアメリカのよき伝統である。Joan の伴侶の職の獲得に奔走したのは、勿論、Microbiology Departmentの学部長 (Chair)であり、同僚たちであった。Joanは、今は Harvard Medical SchoolのDepartment of Cell BiologyのChairをつとめている。


 2006年6月、京都で開催された国際分子生物学会の「共同参画」のセッションに、Carolを知る人たちの援助を得て、私は彼女を講演者として招聘した。二人だけになったとき、私は「結局、Affirmative actionってどうだったの?」と彼女に問うてみた。“Affirmative action?  Well….”といってしばらく黙っていた彼女を見て、tenureもとり、一人息子ももうけ、今もmeetingでアメリカ中飛び回っている彼女の研究者人生も決して平坦ではなかったのだなと推察した。


 今、女性研究者育成に関してかかえる課題は日本もアメリカも殆ど変わらないというのが正しい理解であろう。ただ、女性の研究リーダー養成についてだけは大きく水をあけられており、私たちが学ぶべきことが山ほどあるというのが、最近の私の印象である。このことについては、またどこかで稿を改めてお伝えできたらと思っている。




大坪先生のご紹介


 今回、エッセーをお願いしました大坪先生は、九州大学大学院薬学研究科を修了され、アメリカで研究生活を送られた後、現在は、東京大学分子生物学研究所の講師をされています。「転移性遺伝因子によるゲノム動態とその進化」がご専門です。大坪先生に、はじめてお目にかかったのは、文部科学省科学技術振興調整費「女性研究者支援モデル育成」事業に採択された七大学の意見交換会(学士会)でした。「私、九大出身なのよ」と、涼やかな声で話しかけていただき、気品ある先生のたたずまいに「まだ、着任して一週間で・・」と、おどおどお答えしたことを覚えています。学生時代は茶道部に在籍していらしたそうですが、その一方で、研究・社会活動はとてもアクティブです。男女共同参画学協会連絡会の第4期副委員長として、また、同会の大規模アンケートの作成・解析担当者として、女性研究者支援策の成立に尽力されたことで有名です。さまざまな会合で先生をお見かけして、ご挨拶に向かうと、そこにはすでに順番待ちしている人たちがいる、ということが何度もあります。ご多忙のところ、今回、エッセーを書き下ろしていただき、男女共同参画推進室一同、心よりお礼申し上げます。


≪大坪先生サイエンス・ポータルエッセイ掲載ページ≫
http://scienceportal.jst.go.jp/columns/interview/20150813_01.html

平成21年3月6日

室員 犬塚典子(女性研究者支援室)